思えば、小説家で、特に好きな方というのはいないのだけど、
詩人のまどみちおさんは、小さいときからかなり好き。
一時期、谷川俊太郎さんと若干混同していたことはナイショである。
まどさんの作品で、次のような詩(うた)がある。
リンゴ まど みちお リンゴ リンゴを ひとつ ここに おくと リンゴの この 大きさは この リンゴだけで いっぱいだ リンゴが ひとつ ここに ある ほかには なんにも ない ああ ここで あることと ないことが まぶしいように ぴったりだ
わたしの個人的な感覚なのだけれど、
まどさんの数々の作品は
「世界を 切り取る」
というよりは、
「世界を 抱きしめるように祈るように見つめる」
その結果、
生まれ出てきたもののように思えて、
そのどれにも、
まどさんの深い愛情と畏敬の念を感じる。
「あることと/ないことが/まぶしいように/ぴったりだ」
という響きに、
わたしたちはリンゴの輪郭をくっきりと感じられる。
ものがそこに「ある」ということは、
ものが作り出している輪郭の外側には、
それはもう「ない」ということ。
わたしがそこに「いる」ということは、
わたしの身体が作り出す輪郭の外側には、
わたしはもはや「いない」ということ。
それぞれの存在のかけがえのなさ、貴さのゆえん。
今朝。
いつものようにぼんやりと起きて、
ぼんやりと太陽の光を浴びて、
ぼんやりと鏡に向かいながら、
ぼんやりとなにやら考えていた。
わたしはいつも、
起きてから洗面と身支度を済ませるまでは、補聴器を付けていない。
(これについては、脳が起きてないから、
まだ外界の刺激を受けたくないがゆえのわたしなりの習慣なんだろうな〜
というゆるい自己分析。)
そして、ふと思い至る。
補聴器を付けていないときって、
頭の中でなにか考えていると、
やがて、ことばがぐるぐると
身体の中を縦横無尽に駆けめぐっていく。
それが、
そのあとに補聴器を付けた途端、
たとえば台所の、母がトントンと使う包丁の音とか、
目の前でトプトプと流れる洗面台の水の音とか、
後ろでゴーゴーまわる洗濯機の音とか、
外側から一気に、
きこえにくい耳なりにさまざまな音が入ってくる。
いろんな音やことばが、
自分の中に一気になだれ込んでくる。
面白いもので、このとき、
補聴器を付けるまでは、
内界だけでゆらゆら漂っていた自分が、
補聴器を付けることで、
聞こえてくる音やことばによって、
外の世界と自分が「つながる」
そんな感覚がはっきりとある。
内界でぐるぐる回っていた声にならないことばが
するりと自分の外に出て、
外界でくるくる舞っていた音たちが
ゆるりと自分の中に入ってくる。
そんな感じ。
それまでは、
自分より内側の輪郭を味わっていたのが、
自分と外の世界の輪郭を突きつけられて、
目が覚めていく。
そんな感じ。
まどさんが詠んだリンゴの輪郭と、
きこえないわたしが、毎朝ふと感じるわたしの輪郭。
今日のひとこと:
幼い頃からなんとなく感じていた感覚が、ふと腑に落ちたそんな朝だった。
なんだかうれしくて心ここにあらずだったからか、着ていた洋服の上が横じま、下が縦じまというわけわからない組み合わせになったのでした。みなさん気づいていませんように。笑