xNewme! (クロス・ニューミー)
ユキです、こんにちは。
突然ですが、
あなたは、音や声をどうやって “きいて”いますか?
私は、ご存知のように
補聴器を通して
音を「感じる」ものの
耳だけで
その意味内容を理解することは難しいので、
人とコミュニケーションをとるときには
相手の唇の動きや表情を読み
「目できく」ことが中心になります。
そして、
たぶんそれと同じくらい、
指先や手のひら、足裏などから伝わる
「ひびき」「振動」を感じとる、
つまり
「ふるえを感じる」
「肌や皮膚を通してきく」こともしています。
今、このメルマガは居室で書いているのですが、
本日の料理担当:母と父が
台所で食事を準備する声や音がカチャカチャとしてくるので
ちょいと補聴器の電源を落とし、
無音の状態で、キーボードを打ってみています。
そうすると、いつも以上に
キーをたたく自分の指と
そこから伝わってくるかちゃかちゃ感、
マウスを手にしてクリックボタンを押す指先と
それに付随してカチッとはまる体感覚、
といったものが
自分の中で、色濃く感じられるのですよ。
耳から入る情報を
シャットアウトして無音にしたことで、
聴覚以外の体で感じる音やひびきが
普段よりもいっそう存在感を増して
自分の中で響いてくる、
そんな感じです。
きこえる人も、集中したい時に、ヘッドフォンやイヤフォンを装着しますよね。
これ、まわりの音を遮断すると同時に、
PC画面など目の前のものの存在感がつよくなるといった、聴覚以外の変化は感じられるのでしょうか?音を遮断しているとき、または音楽をきいているとき、世の中、どんな風に映っているのでしょう。(興味津々)
きこえない私が
目で、からだで、
日々感じている音たち。
料理をするとき
洗いたてのみずみずしいピーマンをシャクシャクッときざむ感触。
用を足したとき
トイレットペーパーを
カラカラとまわしてシャッと切り取る音。
お茶を淹れるとき
立ちのぼる湯気を感じながら
マグカップに注ぎいれる際のコポコポコポという幸せなひびき。
音や声のきき方や感じ方は、
耳がきこえる・きこえないにかかわらず
人の数だけある、
個人的にはそう思っています。
そもそも、
音や声とは「きく」だけでなく
「感じる」ことができるもの。
きこえないわたしが
そう気づくことができたのは、なんでだろう?
うーん、今思えば、
きっかけはおそらく
小学生のときの母親のこんなひとことでした。
「コップを置く時、がちゃんとしたら
コップもテーブルも痛いよね。
一旦指を挟んで置くと、
やさしくなっていいのよ」
と言って、
「ほら、こんなふうに。
いやな音もしなくなるでしょう?」
とコップを
テーブルに置く際に
小指をそえてクッションがわりにしてから
静かにすべるように着地させる様子を、
やって見せてくれたのです。
「きこえない」ことや
きこえない人の「きく」ことを考えるときに
私たちはついついどうきこえるか、
その音はどんな言葉やオノマトペで表現できるか、
どれぐらい話せるのか、
といったことを気にする風潮がある。
でもたぶん・・・大切なのは、そこではない。
自分はどう感じるのか、
自分はどんなふうに向き合いたいのか、
身の回りのものやひと、自然などに対する
そんな”思い”から
まずはスタートするのだと思う。
かつて母がわたしに
コップやテーブルが痛くないように
大切に扱えば、
いやな音はしなくなると伝えてくれたように
「このコップを大事に扱いたい」
「このひとときが、幸せ」
「会って話せることがうれしい」
動作や所作を通じて
発される音も声も、
わたしたちが普段かわす聞きことばも話しことばも、
その先にあるもの。
自分の思いや考えを伝える、
1つのツールであり、方法なんですよね。
あなたやあなたの大切な人が
生まれ持つ目・鼻・みみ・口・肌を
はじめとする体感覚で、
目の前の世界を、どのように味わうか。
目の前の相手と、どんなふうにかかわるか。
そこには欠損も優劣もなく、
あなただけのわたしだけのゆたかな感性をいかし、
自分なりの実体験をただかさねていくだけ。
そして、経験したことを相手と共有するために
わたしたちはコミュニケーションをとる。
伝えるために、ことばを交わしあう。
いろんな教育や成長支援があるけど
(とくにきこえない子どもたちに伝える内容は)
そのような愛とよろこびに満ちたメッセージからはじまってほしい、
と思う今日このごろです。
久しぶりにまじめに?語ってしまったわ。
まだまとまっておらず、
胸に浮かぶままにしたためてみた感じだけど。
たまにはこんな「原点回帰」もいいですね、すっきり。