「えっ、YUKIさんって手話できるの??」
ときどきまわりの方に訊かれる質問。
今日も打ち合わせしながら、
たまたまメンバーの皆さんとそんな会話に。
「そうです、できるんですよ〜」と私。
「じゃあ、『ちょっと待って』ってどうやるの?」
(試合中によくやるタイムのTをつくりながら)「こんなんじゃない?」
「いやあこうでしょ」(野球のサインを超速にしたような動き)
「あごの下に手を添えて『待つ』をするんです、これ」
と私がやってみると、みなさん揃って『待つ』の手話。
見ようによっては、
冒頭画像のような
少々ぶりっこ気味の表現(手話)なので、なんともかわいい。笑
(『待つ』の手話表現は、この画像の片手バージョンに近いと思っていただければ。)
でもまあ個人的には、
形にとらわれず、
「ちょっと待って」という気持ちが
動作と表情で伝われば十分だと思うので。
その点では、こちら↓の渋めのお姉さんもある種、手で話す達人でなかろうかと。
ぶりっこ風に目で訴えかけるもよし、
渋めに眉間の度合いでやんわり伝えるもよし。
それにしても、
手話ということばひとつとっても
日本手話(手話特有の文法に基づき話される手話)や
日本語対応手話(通常の日本語に対応するかたちで話される手話)、
さらに海外で使われる「国際手話」や各国の手話などいろいろ。
「手話」はひとつの言語だし、
ある程度基本を備える必要もあるかもしれない、
でも結局、「手で話す」ことの原点は、
渋めお姉さんのような表現にあるんだろうなと。
伝えたいきもちを、
手をはじめとする身体と表情を使って表現する。
相手に伝わるまで、
相手の反応をみながら、
相手と楽しみながら。
普段、ことばによるコミュニケーションを
当然のように行っているわたしたちだけど、
何かを伝えて、また、何かを伝えられる、
そのプロセスは単なることばの交換だけでなくて、
わたしはそこにどんな思いを込めて届けているか、
また、相手のどんな思いが込められているのか。
そこに思いをはせると、コミュニケーションはとてつもなく楽しいし幸せな行為だなあとつくづく。
感音性難聴だと、いつだってことばの内容を100パーセント理解するのは難しい。
だから言語情報だけに特化すると、各場面でおおかた7パーセントぐらいしか取れていない気がする。
あくまでも個人的な感覚だけど。
一方で、表情や雰囲気等の非言語的情報を察しやすいからか不思議と話に付いていけたり。
「YUKIさんって、一体どれぐらい話が理解できてるの?」
これもときどきもらう質問。
うーん、難しいけれど、今のわたしならこう答えるだろう。
「たぶん7パーセントぐらい、でも気持ちはいつも100ですかね〜」
いつだって相対(きこえる皆さんときこえない自分の比較)と絶対(きこえない自分の揺るぎない軸)を往復している自分の感覚、きらいじゃない。
昔はこの感覚を、「どちらの世界の住人にもなりきれない」さみしい自分だと受けとめていた時期もあったけれど。
「どちらの世界の住人にもなりきれない」ことは、イコール、「どこに住むかは自分で決められる」んだよねきっと。
あああ楽しみ。(口癖)
今日のひとこと:
手で話すシリーズ、思ったより続くなあ〜
書いているとそれにつながるトピックスが、日常生活で偶然起こるのも面白い。
プランドハプンスタンス!(呪文風に)