「どうでもいい」

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以前から、まわりの友人知人や同僚によく言われること。

「ゆきさんって、いつもなんかテンション一定だよね。フラットというか」

「ゆきってなんで昔から全然変わらないの?」

「そういえば、ゆきが、怒ったりしてるのあまり見たことないなあ。波がないね」

などなど。

 

最近も、友人との食事中にふとそんなことを言われ。

まあ、たしかにそうなんだよなあ。

淡々としてるというかひょうひょうとしているというか。

別に愛がないわけじゃないけど、どこか冷めてるかもしれない。

なんていうか、ちょっと「どうでもいい」スタンスで世の中を眺めているかも。

かと言って、別に投げやりとかそういうわけでもなく。

 

当たり前だけど、

わたしだって人間だから、いらいらもするし怒りもする。

たまに、「はあ?」と思うような言い方をされて「あんた何様だよ」とぷんすこしたい時もある。

 

で、一時期こんなことを試してみた。(実験好き)

 

『相手が負の感情だったら、

こちらも、負の感情で応じてみる』

 

もともと相手のきもち・おもいを察しやすく、大事にしたくなる性格なので、

自分のきもち・おもいには蓋しがちなところもあるわたし。

でも、アクの強い方に対して、蓋してばかりいたら苦しくなってきた。

そこで、

我慢しないで、どんどん言いたいこといった方がよいかなあ、

と試してみたのだった。

 

たとえば、

打合せ中に、自分の意見に対してわたしが予想外の案を出して、途端に不機嫌になるひと。

表情が変わる、つっけんどんに対応してくる。

ならばと、わたしもつっけんどんに応じてみる。

たとえば、

これまで相手がやってきた施策や方法に対して、わたしがここはアップデートしませんかと提案する。

表情が変わる、わたしの説明が終わるのを待たずに細かなところを指摘してくる。

ならばと、わたしも話を遮ってみる。(がこれはだいたい失敗する。笑)

以前なら、自分がなにか悪いのではないかと、いろいろアプローチの仕方を工夫していたことを一切やめて、相手の心情やことばに応じて好き勝手やる感じ。笑

 

で、気づいたこと。

 

『負の感情は、きもちのよいものではない』

とくに自分が。

 

まあごくごく当たり前なんだけど・・・

相手が発したものであれ、自分が出したものであれ、きもちのよいものではない。

ということはつまり、

相手が負(マイナス)のエネルギーであることが変えられないのなら、

すくなくとも、自分だけでも正(プラス)のエネルギーを発したほうが、

トータルでみれば、

自分が楽になるし、きもちがいいということ。

 

 

ちょっと前のわたしは

相手に「期待する」から、いちいちがっかりしていた。

相手に「期待する」ことと相手を「信頼する」ことをちょっと混同していたな。

自分がいい姿勢やいい態度に努めれば、相手もいい反応をしてくれることを当然だと思ってたし、

実際のところ、入社当初はそんないいひとたちに恵まれて仕事をしていた。

だから、いい反応をしてくれることを自然に「期待する」ようになったかもしれない。

でも実際のところ、世のなかはそういう方たちばかりではなく。

あれ? 信頼しているひとなのに、なんか反応がおかしい。

でも、それは信頼しているのではなく、わたしが勝手に相手に期待しているだけ。

 

なんかごちゃごちゃ書いているけど、

結局は、目の前の相手は「どうでもいい」。

こう書くと言葉はわるいけれど、「どんな相手でもいい」ということ。

相手がどうあろうが、変わらない。それで、かまわない。

気にすべきは、相手の(負の)感情ではなく、相手のコミュニケーション内容。

相手がどうあれ、自分はじぶんのままでよくて、

負の感情まで受け取る必要はない。

相手が「何を言っているか」を捉えて、それにきちんと反応することに集中する。

ただそれだけ。

 

目の前の相手がなにか理解しがたいことを言い始めたり、

予想外の反応をしはじめたら、

まず「どうでもいい」と心で呟いてみる。

そうすると、不思議と、目の前に「いる」だけになる。

自分自身と相手のあいだに、そっと線が引かれる感じ。

アドラー心理学でも、「課題の分離」という考え方(理論)がある。

相手の課題まで背負い込む必要はなく、自分の課題と相手の課題は分けて考える。

負の感情をもつ相手とかかわっているとき、

自分までもがその感情を受け取る必要はない。

そういうことだよね。

 

そんな感じで、

負の反応を返すひとに対して

負の感情で呼応することは、分離ができていない、

という状況を、実験を通じて、みずから体感できたわけで。

 

今までは、

「なんかこの人ちょっと反応が変だな・・・」

と思ったら

「シャッターを下ろす・閉じる」(閉店ガラガラ)

ことを無意識にやってたけど、それをしていた意味が捉えられてよかった。

守るとか逃げるとか以前に、

自分は自分、ひとはひと、という線引きを体現しようとしていたのだなと。

こころの反応って、ちゃんと意味があるんだなあ。

 

そして、今までは気づけなかったこころの動きに気づけたので、

どんな縁であれ、経験であれ、意味があるな、と改めて。

実験ばんざい。

 

 

 

 

この記事を書いた人

ソニー人事(研修・人材開発)を約15年
→ オーストラリアへ語学留学・ヨガ
→2020年11月 フリーランスのキャリアコンサルタントとして活動開始。会社員と個人のおしごとの複業ライフを実践している。2022年はようやくインスタを開始してみたり英会話を楽しんだりする日々です。