以前、ちらっと触れた、「レインツリーの国」。
本日、三度目の鑑賞をしてきた。笑
そのうち感想を書きたいと思ってたら、
あいだに久しぶりの海外を挟んだこともあって
なんだか記憶があいまいに。
そこで、また観てみた。(真面目)
以下に書くことは、
あくまでもYUKIというひとりの人間の、個人的な感想。
幼少時から今に至るまできこえない人生を歩んでいるわたしの、生の声。
そう思って読んでいただければ幸いです。
※ ストーリー展開に触れない程度の感想ですが、一部、具体的な場面のネタバレ含みます
一回目。
はじめてこの作品を鑑賞しながら、
主人公の伸(玉森裕太さん)といっしょに登場する、
感音性難聴のひとみ(西内まりやさん)が
とにかく性格暗いなあ…と感じたわたし。
もしかしたら、中途失聴の人とかで
耳のことを受けとめきれずそうなっている方もいるかもしれないけど、
わたしとそのまわりのきこえない知人たちには
ちょっと関係ない遠い世界かもしれない、そんな印象を持った。
だって、
わたしは、このきこえない人生を愛しているから。(重い)
もし今生まれ変われるとしても、きこえない属性をまた選ぶだろうから。
まわりの知人たちも、
愛まではいかないかもしれないけど、
後ろ向きになったり前向きになったりしながら
みんな一生懸命日々を過ごしている。
私自身も、仕事をはじめ、生活全般、
不自由(ていうか不便)はしょっちゅう感じるけれど、
家族や友人や上司同僚などまわりの人に支えてもらいながら
人との交わり関わりの貴さを感じて
生きられることは幸せだから。
幼少時の言語訓練だったり、
中高時代の人間関係上のきつい経験だったり、
大学のときに出会った
きこえない仲間(手話仲間)ときこえる仲間(ダンス部)
それぞれとのかけがえのない時間だったり。
きこえないことは正直きついけれど、
なんとかなるし、
なんとかするものだし、
この映画のひとみさんはなんか甘いんじゃ・・・
とむずむず。
これが、初回鑑賞時の素直な感想。
そして、日本語字幕付きで観た二度目。
字幕なしで一度観ている作品を
字幕ありで拝見してまず感じたのは、
世の中には、こんなに音や言葉が溢れていて、
わたしたちの生きる世界は、
こんなにも音声で彩られているんだということ。
率直に、この世界はなんて素敵なんだろうと思いつつ、
その一方で、
わたしが普段「きいているつもり」の世界は、
やっぱりどこまでも「きこえているつもり」にしか
過ぎないんだということを
改めて突きつけられて、頭痛もした。
もともとカンは良い方なので、
残存聴力に比べて音声情報(の内容)をとるのが上手だと、
言語聴覚士をはじめ、
いろんな方に言われることが多いわたし。
現に、字幕がなくてもだいぶ理解していたつもりだった。
それでも、字幕がある状態で作品を観ると、
当たり前だけれど
『ここで顔は映ってなかったけど、こういう会話があったんだ』とか
『BGMがうるさくて聞き取れなかったけど、こんなセリフ言ってたんだな』とか
ぐっと理解が進み。
だから、音に彩られるこの世界は
やっぱり豊かで美しいなと感じいる一方で、
音を理解しきれない耳をもつ自分に対する
途方もないさみしさも心のどこかに襲ってきた。
毎朝補聴器を付け、
日中はひとの唇を読み、
思い通りにはきこえない耳を澄ませ、
一所懸命、音の世界を「見て」
一生懸命、音の世界を想像している。
それでいいのに。
もうそれでいいと諦めたはずなのに。
きこえているつもりで生きているけど、
それはあくまでも「つもり」であって
どこまで頑張ってもきこえる人とは同じになれないのだと
目の当たりに突き付けられると、なんだかさみしいなって。
そんなことを感じた、二回目の鑑賞だった。
で、今回、三度目。
今までも劇中いろんな場面で涙を流したけれど、
今日は、自分でも意外な、
なぜここで涙が出るのかよくわからないところでじーんときた。
それは、
伸さんがひとみさんの耳に補聴器が付いているのを見て、
はじめて彼女が
「きこえない」人であることに気づく場面。
ひとみさんが難聴ゆえに
意図せずに起こしてしまったある出来事に対して、
「なにやっているんだ、人に迷惑かけて」と
伸さんが声を荒げる。
「すみませんでした」
と頭を下げて謝るひとみさんと、
そこに補聴器を見つけて
「あ・・・」
と息を呑む伸さんの姿。
どちらも誰もわるくないのに、
ちょっとしたきもちのすれ違いで発生する
爆発的な感情。
目に見えないハンディキャップであるゆえに、
相手に伝えるタイミングや
サポートのお願いの仕方はむずかしい。
私も経験してきた分
そこそこには心得ているつもりだけれど、
やっぱり壁にぶつかることも多い。
映画鑑賞中は分からなかったけれど、
今振り返ってみると、
私自身も形は違えど味わってきたその経験の、
むずかしさと、恥ずかしさと、悔しさが、
一気に体内をめぐったゆえの涙だったのかなあと。
でも、なんか、そういうむずがゆい気持ちが
自分の中にあることを認められたから、
よかったなとも思う。
気付かせてもらいました。(合掌)
あと、
これは別に無理にポジティブにしているつもりはなく、
上記のきもちと同時に感じるのは、
(ひとみさんの耳がきこえないことが)
ここで伸さんにちゃんと伝わってよかったな
という安堵。
もちろん、
ここでは単に耳がきこえないという
事実が伝わっただけであって、
どんな風にきこえないのか、
どう話すとわかりやすいのか、
普段どんな気持ちを抱えて生きているのか、
などなど難聴に端を発するいろんなことは、
このあと時間とともに理解を深めていくことになるのだけれど。
でも、相手が耳がきこえないことを
知らないのと知るのとでは全然違う。
関係性の大きな一歩。
そんなことも感じながら、鑑賞した三度目。
これまでの2回はどちらかというと、
きこえない当事者としてひとみさんに向ける視点が強かったけれど、
三度目の今回は、伸さんの気持ちに触れられたな、
と感じる場面もちょこちょこあり。
そして、レインツリーの国を
三度観て気づいた自分の思いが
まだもうひとつふたつ。。
なんだかもりだくさんで、感想書き終えられないな。
でもおしまい。笑
今日のひとこと:
映画「レインツリーの国」を通して、自分の普段感じていることを見つめなおせるし、こうして文章化(言語化)することで整理できるし、いい機会をいただいたなあとつくづく。
2015年秋冬のタイミングで、この作品を鑑賞できたことに心から感謝。