いま、春が来ている。
春、にぎやかでいいね。
世界が、いのちに溢れている。
木々も花々も人々も、わいわいと声をあげている。
いつも歩いている石畳の道にてふと
なんだかいつもと
色合いが違うなあと感じ、
この感覚はなにゆえだろう、
と少し味わってみた。
すると
石の合間から
雑草がにょきにょき出ていて
道に瑞々しさを添えている、ということに気づく。
そんな光景を前にして
(正確には自分のこの一瞬の心の動きに対して)
この季節のテーマは「発見」なのかもしれないなあ
というインスピレーションが、じわじわと。
発見したり、気づきを得たりするテーマやその内容は
人によって様々なのだろうけれど、
概して、
この季節、わたしたちは、なんらかの発見や気づきなどを得やすい体質になっているのかもしれない。
車窓から「あ、あそこにも桜の木があるんだ」とか
道すがら「こんなところにタンポポが」とか
自然界において
“気づかされる”瞬間が多い時期だから、
他の場面でも
“気づかされる”ような出来事が、
夏秋冬よりはちょっぴり多めな気がする。
言い換えれば、
この春という季節のもつエネルギーを
そのまままるっと受けとめて、自然体で過ごしていれば、
何かが生まれること。
何かが芽吹くこと。
何かが変わり行くこと。
何かが進むこと。
そんな方向を自然に向くし、味わされるという感じなのかな。
大地が、いのちの力に満ちている時期だから、
そこに立って生かされている私たちも同じような性質になり
新たに始めること、
次の一手一歩のヒントを得ること、
静(冬)から動(夏)に向けてシフト(春)すること、
膠着した関係や事象がなんら進展を見せること、
「なんだそういうことだったのか」と気づきを得ること、
などなどが起こりやすくなるんだろうなあと。
まあわたしが春生まれなので、
そんな風に活気づくことを人一倍感じるのかもしれませんが。
ついでに、最近の私が気づいたことをメモがてら。
気づいたというか、忙殺の日々で
すっかり抜けていたものの改めて思い出したこと。
それは
なにげなく自明のこととして受けとめている
なんでもないようなこと、
それらは、実は、
とてもかけがえのない一瞬であり
一場面であるということ。
そして、
それを見過ごすか、味わうかは、
自分の選択次第ということ。
世界はいつもシンプルで、ただそこに在り、
どう見るかどう感じるかはすべて自分が選択しているということ。
ごちゃごちゃ考えることもありだけど、
結局は、ぐるっと一周まわると世界も自分も一瞬一瞬がシンプルでよいということ。
お風呂上がりに飲む、水の美味しさ。
生まれたときから今まで見守ってくれている、両親。
誕生日には「一歳」年をとること。
街の至る所で、いつもはそっと息吹いている桜の木。
春になると一気に花を咲かせて、「あ、見つかっちゃった?」と少し恥ずかしそうにでも嬉しそうに今日も生きている桜の木。
毎晩身体を横たえて休息をとり、次の朝目覚めること。
……
なんでもないようなことは、
それは、実は、
もうそれだけで十分に「ある」ということ。
愛を湛えて、そこに始めからあったということ。
世界はいつも完全であり、
わたしたちも完全なるものの一部なんだということ。
あとはそれに気づくだけでよいということ。
発見、気づき、自覚。
実感、経験、いのち。
始まり、喜び、感謝。
冬が長すぎた(仕事忙しくて心がどこか凍ってた)
だけに今年の春は静かに愛でてるんだけど、
そんなこんなで、なんだかいつもとまた違う感覚だなあ。
まあ多分これが、
今年の春のわたしの「発見」とか「気づき」なんだろうとは薄々。
はーー
春、たけなわですね。
2016年度もよろしくお願いします。(挨拶好き)
今日のひとこと:
うーん
久しぶりに書いたら、なんだかいろいろ出てきた。笑
やっぱり書くのは楽しいし力になるし、
なんでか分からないけどなにより幸せだなあ。(大の字)