内容がプラスかマイナスかにかかわらず、何も経験しないより「ある」ことは貴い。それだけで。どんな出来事も経験も、いずれも自分の人生上の、糧として種として必ず残る。
どのようなかたちで記憶に刻むかは、自分次第。
つらく悲しい出来事でも、それを糧に大切ななにかに気づき、
自分自身の在り方や人間関係の築き方を見直すきっかけになるかもしれない。
そうしよう、と決めた瞬間に、きっとそうなる。
時間はかかるかもしれないけれど、いつかきっとそうすることができる。
最近気づいたのは、まったく経験しないよりは「ある」ほうがよいのは、ネガティブな経験だけでなく、一見マイナスの人間関係にも通じるということ。
わたしは、おかげさまで、家族をはじめ、生来ひととの縁には恵まれているほうで、いい意味でもわるい意味でも世間知らずだった。
自分なりには、悔しい思いも悲しい思いもしたし、いろんな出会いを通じてそれなりに経験も積んだつもりになっていたけど、今思えばまだまだ知らなかった。
それがここ数年、不思議と、今までなら付き合いがなかったような人たちと出会い、いっしょに過ごす機会があり。それなりに楽しかったけれど、なにかが違う。ずっと感じていた。
ある日、「なんだか、前よりまわりにネガティブな人が増えた気がする…」そんな気づきを得た。
それを受けて、先ずわたしが思ったこと。
「日頃のわたしの行いを見直したほうがよいのかな?」(見直さなくちゃ)
「わたしの、(その人に対する)コミュニケーション方法がまずいのかな?」(変えなくちゃ)
「自分が無意識にネガティブになっているのかな、大丈夫かしら」(気をつけないと)
何かうまく進まないとき、そのままでいることは不安になる。
そんなとき、自分自身を省みることはそれなりにはいいことだと思う。
でも、わたしの場合、結論からいうと、上記どの心配も杞憂だった。
「このひととの付き合いを通じて、また何か1つ学べる」、それだけでOKだった。
だって、見直したし、変えてみたし、気をつけたけれど、変わらない相手は変わらない。
気分屋な人もいるし、わがままな人もいるし、どうでもいいことを気にする人もいる。(他のひとから見たら、わたしもそう映ってるかもしれないけれど。いや映ってないかな〜。←どっち)
自分が選べる縁は自分の意志でいくらでも変えられるけれど、学校の同級生や仕事上のパートナーをはじめ、不可抗力で付き合わざるを得ない相手もやっぱりいる。
相手が変わらないなら、自分を変えよう!(ねじりハチマキ)
そう思って自分を努めて変えてみたけれど、やっぱり相手は変わらない。
そのうち、なんだかあほらしくなってきた。なんだこりゃ!なんのこった!(大の字)
で、いちいち自分を省みるのをやめてみた。
すっかり気が楽になったわたしに、ある日おりてきた気づき。
「そうか、ネガティブな人を通して、いろいろ考える機会をもらったんだな」
それだけ。経験はただの経験、いちいち反省しなくていい。
会わ「ない」に越したことはないかもしれないけれど、そのひととのご縁をもらったということは、何かしらの気づきが「ある」ということ。
そして、あとからその何かに気づいてその時点で省みれば十分で、その過程のなかでいちいち重く受けとめる必要はない。シンプルに生きていればいいんだなあって。
今日のひとこと:
こうやって書いてみると、わたし、意外とまじめなんじゃ!(自画自賛)