嬉しいことに、この歳になってもまだまだ知らないことはたくさんあって。
今年も残り3ヶ月か、はやいなあ〜としんみりしながら、
2015年になってこれまでの間に、わたしがはじめて知った/気づいたことで
いちばん感動したのはなんだっけ、としばし思いを馳せてみた。
たぶん、あれ。(何)
ていうか、それ。(何だろう)
もう、これ。(だから何)
それは、「ひとのからだは、楽器である」という捉え方。
幼少期から15歳頃までピアノを習っていたわたし。
音を聞き分けることは難しいので、どちらかというと「響き」を感じながら演奏する。
とはいえ、ピアノを本格的に弾いていたのはもうだいぶ前のこと。
ダンスをやっていて、そのときも音楽ではなく「響き」や周囲の「動き」をベースに踊っていたけれど、それもすこし前のこと。
そんな最近、ボイストレーニングを教わる機会があり、
自分がどの音階の「声」を出しているかを、はじめは先生のピアノ演奏のもとで確認。
でも、ピアノを習っていた話になり、もしかしたら、わたしが自分でピアノの鍵盤を弾きながら、「声」を確認する方がより感じやすいかもね、と先生。
久しぶりにピアノの前に座り、まずは右手をピアノの鍵盤のうえに乗せ、静かに押す。
ぽーーーーん
指先に、ピアノ独特の心地よい響きが伝わる。
そして、右手でピアノの鍵盤をゆっくり叩きながら、左手をのどの声帯あたりにあててみる。
ぽーーーーん と右手指先に響くピアノの音。
あーーーーー と左手のひらに響くわたしの声。
そうして、ドー、レー、ミー、とピアノで音階を追いながら、声の響き具合もたどっていく。
わたしの場合、「音」で違いをとることはできないけれど、手に伝わるピアノの音階と自分の発する声の「響き」「波長」の違いを感じ取ることはできる。
「音」探しならぬ、「響き」「波長」を丹念に合わせていく作業。
昔、こうやって喉に手をあてて、声を出すことを少しずつ覚えたっけと思わず懐かしくなる。
すると、わたしの様子を横で見ていた先生がふと「今度、体にそえる手は、手のひらでなく指先にしてみましょうか」とおっしゃる。
手のひらより、指先のほうが皮膚が薄くてより感じやすいはずだから、とのこと。
あと、触れるのは、喉ではなく、鎖骨の下付近でよいかも、とも。
胸のあたりに指先を添え直しながら、もう一度、声を出してみる。
やがて。
指先に、静かに、でもはっきりと伝わる、自分の生の声の響き。
震えとも振動ともつかない響き、これを「声」というのだろうか。
ピアノの響きといっしょに、自分の声を触ってみた瞬間。
それは一瞬のことだったのに、言語訓練を受ける小さいわたしがついこの前までそのへんにいたかのような不思議な錯覚だった。
小さい時に言語訓練で一生懸命探した「声」とはまたちがう、音色のある「声」を感じられた気もした。
「うわー、響いてます!はっきり感じられますね!」と興奮気味のわたしに、
「そうそう、わたしたちのからだは、楽器ですからね!」と笑顔で応じてくださる先生。
そうか、わたしは楽器なんだ、とうれしくなる。
わたしのからだをどう響かせるかで、そこから発される声も歌もまるで変わってくる。
うれしくなって、ついでになんだか泣きたくもなる。
声に感謝、ことばに感謝、からだに感謝。
今日のひとこと:
それにしても、すごいことをさらりと伝えてくださる先生、すごい。
何歳になっても、こういううれしい出会いがたくさん。たぶんこれからもたくさん。(皮算用)
2015年の終わりには、また何か、新しい学びや気づきを得られているかな〜
そうだといいな〜(仰向け大の字になりながら)